子母砲についての満文奏摺――『年羹堯奏摺』より
今回は「子母砲」についての史料である。
年羹堯が「ロブザン=ダンジンの乱」に関連して雍正帝に送った報告の奏摺に「子母砲」が登場するので翻訳してみた。
「子母砲」というと『水滸伝』の「轟天雷」凌振の「子母砲」が思い浮かぶが、今回はそれとは直接関係ない。
そもそも「子母砲」とは、明代に西洋から伝来した後装砲の一種である仏郎機(フランキ)砲を改良したものである(1)仏郎機砲と子母砲については、有馬成甫『火砲の起原とその伝流』吉川弘文館、1962年、王兆春『中国火器史』軍事科学出版社、1991年、王兆春『中国火器通史』武漢大学出版社、2015年、周維強『仏郎機銃在中国』社会科学文献出版社、2013年に詳しい。。
長所としては、あらかじめ火薬と砲弾を充填してあるカートリッジ式の子砲(薬莢)を母砲(砲身)後部の長方形の穴(画像および写真を参照)に装填する方式を用いるため発射速度が速いことと、軽量で持ち運びも便利なことである。
反面、短所としては子砲と母砲の隙間からの火薬燃焼ガスの漏れによる威力の低下がある。
子母砲(『皇朝礼器図式』巻十六 武備)
子母砲後部(北京、中国人民革命軍事博物館、2006年5月撮影)
元来は主に艦載砲として使用されていたが、中国に伝来した後は陸戦にも使用されるようになっている。
清朝においては、特に軽量性による機動力の高さにより、清朝周辺部での戦い、特に康熙年間の対ガルダン戦において積極的に運用された(2)清朝における子母砲については、周維強『仏郎機銃在中国』社会科学文献出版社、2013,pp.174-200に詳しい。。
本ブログで取り上げている機動力の高い諸兵科連合部隊である火器営も子母砲を装備している。
詳しくは下記の本ブログ記事および末尾の参考文献を参照されたい。
清代火器営考(修士論文)
第一章 清代の火器とその運用
https://talkiyanhoninjai.net/archives/7015第三章 編成当初の火器営
https://talkiyanhoninjai.net/archives/7858
今回取り上げるのは、雍正元年(1723年)に発生した「ロブザン=ダンジンの乱」での火器と子母砲に関する奏摺である。
なお「ロブザン=ダンジンの乱」については末尾の参考文献を参照されたい。清朝への「反乱」とは単純に断定できない複雑な事情が絡んでいて、なかなか奥が深い。
史料の原文は以下のとおり。
《宮中檔滿文奏摺-雍正朝》,年羹堯 奏,〈奏報收貯子母砲事〉,雍正02年11月12日,故宮156914 號,件 1 ,國立故宮博物院 ⋈ 清代檔案檢索系統,(20251015瀏覽)
https://qingarchives.npm.edu.tw/index.php?act=Display/image/52336642WNGIOB#97u
国立故宮博物院故宮文献編輯委員会編 『年羹堯奏摺』選輯(中)、故宮文献特刊第二輯、国立故宮博物院、1971年、p.622にも『奏聞査看兵械情形』として収載)。
漢訳は、季永海・李盤勝・謝志寧翻訳点校『年羹堯満漢奏摺訳編』天津古籍出版社、1995年、p.147「166.奏聞製造子母砲摺」があり、解釈にあたって参考とした。
本史料からは、「ロブザン=ダンジンの乱」において清朝の火器が効果を上げたこと、子母砲が重視されていることがうかがえる。
凡例
原文の満洲語はメーレンドルフ式ローマ字によりローマ字化した。
*は一字擡頭、**は二字擡頭を示す。
満洲語の句読点は単点は「,」、二重点は「,,」で示す。
皇帝の硃批は[硃批:abcdef]で示した。
( )内は訳者による補足。
満洲語意訳では読みやすさを考慮して、句読点の位置・種類を適宜変更した。満洲語意訳では原文の改行、擡頭は反映していない。
逐語訳
//1 wesimburengge,
奏すること。
1//2 〇goroki be dahabure amba jiyanggiyūn,taiboo,gung,sycuwan šansi
撫遠大将軍、太保、公、四川陝西
dzungdu amban niyan geng yoo i gingguleme
総督臣年羹堯が謹み
*wesimburengge,
奏すること、
**donjibume wesimbure jalin,amban bi tuwaci,coohai agūra i dorgide,
聞かせ奏するため。臣わたくしが見るに、軍器の中で、
tuwai agūra ci oyonggo ningge akū,ere mudan huhu nor i
火器より重要なものはない。このたび青海の
2//3 cooha de,miyoocan,poo de umesi tusa baha,uttu ofi
戦(3)cooha ここでは戦、戦事を指す。この箇所は「このたび」の戦いすなわち「ロブザン=ダンジンの乱」を指している。にて、鳥鎗、砲にて甚だ益を得た。そこで
amban bi beye hūsun i emu minggan juwe tanggū dz mu poo
臣わたくし自力で一千二百の子母砲(4)dz mu poo 子母砲。を
weilehe,erebe amban bi,amasi genehe manggi,manju,niowanggiyan
作った。これを臣わたくしが戻り行くとき、満洲、緑
tui geren ing de acara be tuwame dendeme bufi,fe bisire
旗の各営に事情を見つつ(5)acara be tuwame 酌量し、事情を見つつ。分け与えて、もとある
poo be bargiyafi ku de asaraki,coohai agūra de holbobuha
砲を収めて庫に蓄えたい。軍器に関連した
3//4 baita be,giyan i
ことを理により
**donjimbume wesimbuci acame ofi,gingguleme
聞かせ奏すべきであって、謹み
**donjimbume wesimbuhe,,
聞かせ奏した
[硃批:harangga jurgan sa,]
[硃批:該部(6)当該の部、当該の案件を管轄している部。ここでは兵部および工部を指すか。が知れ。]
4//5 hūwaliyansun tob i jai aniya omšon biyai juwan juwe,
雍正二年十一月十二日
意訳
撫遠大将軍、太保、公、川陝総督臣年羹堯が謹み奏することは奏聞するため。臣わたくしが見ると、軍器の中で火器より重要なものはない。このたびの青海の戦では、鳥鎗、砲により甚だ益を得た。そこで臣わたくし自らの力で一千二百の子母砲を作った。これを臣わたくしが戻り行くとき、満洲、緑旗の多くの営の事情を見つつ配分し、既存の砲を収めて庫に蓄えたい。軍器に関連することを理により奏聞すべきであって、謹み奏聞した。
[硃批:当該の部に通知せよ。]
雍正二年十一月十二日(1724年12月27日)。
参考文献
子母砲(仏郎機砲)と「ロブサン=ダンジンの乱」に関する主な史料・論著は以下のとおり。
これらに関する史料・論著は他にも無数に存在するので、下記の参考文献からたどっていただきたい。
史料
明実録、朝鮮王朝実録、清実録資料庫(中央研究院歴史語言研究所・韓国国史編纂委員会)
https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mql/login.html
国立故宮博物院 清代檔案検索系統(台北国立故宮博物院)
https://qingarchives.npm.edu.tw/index.php
『宮中檔雍正朝奏摺』 台北国立故宮博物院、1981年。
『年羹堯奏摺専輯』上・中・下、台北国立故宮博物院、1971年。
季永海・李盤勝・謝志寧翻訳点校『年羹堯満漢奏摺訳編』天津古籍出版社、1995年、p.147「166.奏聞製造子母砲摺」。
『皇朝礼器図式』(四庫全書本)、 『欽定四庫全書』上海古籍出版社、1987年。
論著
(日本語)(著者名五十音順)
有馬成甫『火砲の起原とその伝流』吉川弘文館、1962年。
石濱裕美子「グシハン王家のチベット王権喪失過程に関する一考察――ロプサン・ダンジン(Blo bzang bstan ’dzin)の「反乱」再考――」『東洋学報』69-3・4、1988年,pp.51-171。
岩尾一史・池田巧 編『チベットの歴史と社会』上 歴史篇・宗教篇、臨川書店、2021年。
加藤直人「台北・国立故宮博物院編 年羹尭奏摺」『東洋学報』60(3・4)、1979年,pp.226-235。
加藤直人「一七二三年ロブザン・ダンジンの反乱――その反乱前夜を中心として」護雅夫(編)『内陸アジア・西アジアの社会と文化』山川出版社、1983年, pp.323-368。
加藤直人「ロブサン・ダンジンの叛乱と清朝――叛乱の経過を中心として」『東洋史研究』45-3、1986年, pp.28-54.
斉光「清朝による「ロブザン=ダンジンの乱」鎮圧とアラシャン=ホシュート部」『社会文化史学』(50) 2008年,pp.43-66
斉光「「ロブザン=ダンジンの乱」前後における青海ホシュート部の動向」『内陸アジア史研究』24、2009年,pp.39-60。
佐藤長「ロブザンダンジンの反乱について」『史林』55-6、1972年,pp.1-32→佐藤長『中世チベット史研究』同朋舎出版、1986年,pp.383-423。
佐藤長『中世チベット史研究』同朋舎出版、1986年。
宮脇淳子『最後の遊牧帝国――ジューン=ガル部の興亡』講談社、1995年。
(中国語)(著者名ピンイン順)
胡建中「清代火炮」正・続(『故宮博物院院刊』1986年第2・4期、1986)。
斉光『大清帝国時期蒙古的政治与社会――以阿拉善和碩特部研究為中心』復旦大学出版社、2013年。
王兆春『中国火器史』軍事科学出版社、1991年。
王兆春『中国火器通史』武漢大学出版社、2015年。
周維強『仏郎機銃在中国』社会科学文献出版社、2013年。
注
| 戻る1 | 仏郎機砲と子母砲については、有馬成甫『火砲の起原とその伝流』吉川弘文館、1962年、王兆春『中国火器史』軍事科学出版社、1991年、王兆春『中国火器通史』武漢大学出版社、2015年、周維強『仏郎機銃在中国』社会科学文献出版社、2013年に詳しい。 |
|---|---|
| 戻る2 | 清朝における子母砲については、周維強『仏郎機銃在中国』社会科学文献出版社、2013,pp.174-200に詳しい。 |
| 戻る3 | cooha ここでは戦、戦事を指す。この箇所は「このたび」の戦いすなわち「ロブザン=ダンジンの乱」を指している。 |
| 戻る4 | dz mu poo 子母砲。 |
| 戻る5 | acara be tuwame 酌量し、事情を見つつ。 |
| 戻る6 | 当該の部、当該の案件を管轄している部。ここでは兵部および工部を指すか。 |
